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三河の住人の庵

三河の住人の庵

松平信孝伝

熊毛の兜

 岡崎市下三ツ木の城護山観音寺には戦国時代の武将松平信孝所用と伝わる 「熊毛兜」がある。



観音寺 工芸 熊毛兜 一頭

鉢は鉄鉢で、裏に布をはり、表は黒色の毛皮を全面にはってある。眉庇の正面やや左に戦いの時についたと思われる直径二~三cmの凹みがある。吹返は時代をあらわして小さくなってきており、ヒョウタンが五個花弁のように配された紋がついている。鉄鉢後に突起があり、ここに後立をつける。後立は皮を漆で固めたもので、表裏に金銀で南無阿弥陀仏と書す。シコロは三枚よりなる。 三ツ木城主松平信孝所用という。  桃山時代作。
昭和四十七年七月五日指定 岡崎市教育委員会

  • 兜前.JPG



信孝供養塔

 観音寺には 信孝の供養墓が設置されている。

  • 観音寺墓碑.JPG


墓誌は右に開山教信上人と刻まれていて
中央に安祥城主松平長親公 
その左に 三ツ木城主 三木織部正信乗公・松平蔵人信孝公と並んで記されている。
三木織部正は三ツ木城の築城者である。
安祥城主長親公とは松平5代長親(入道して道閲)の事で  三ツ木城主松平信孝は その孫にあたる。

 徳川家康を生み出した松平8代の系譜を掲げておく。

  • 松平氏系譜(1).jpg



安祥松平 

 松平3代岩津城主信光は、文明11年(1482)安祥城を奇計をもって攻略 さらに岡崎城の西郷頼嗣を下した。 信光が没すと 遺言により次男親忠が安城城主を継いだ。安祥松平家初代である。
親忠は明応5年に隠居して 三男長親が安祥松平を継いだ。
 永正3年 今川氏親の大将伊勢新九郎(のちの北条早雲)が岩津城を攻撃した。長親は安祥から兵を率いて駆けつけて応戦、今川方を吉田に退ける。
この戦い以降 松平宗家が岩津松平から安祥松平に移ったといわれている。
 長親は入道して道閲と号した。文亀元年(1501)に隠居して13歳の長男信忠に家督を譲った。 実権は大樹寺に住む道閲が引き続き握っていたものと思われる。 道閲は次男親盛を福釜、三男信定を桜井、四男義春を青野、五男利長を藤井にそれぞれ配置した。

松平清康と 信孝・康孝 3兄弟

 わずか13歳で家督を継いだ信忠は 一門衆や家臣の信頼を勝ち得ることができず 大永3年(1523) 35歳の若さで家督を長男の清康に譲り隠居して大浜に住んだ。 
次男信孝には合歓木、三男康孝には浅井と三ツ木の地が与えられた。

 松平7代となった清康も父信忠と同じ13歳での家督相続であったが 期待にたがわぬ武将で 大永4年(1524)14歳のとき 山中城を攻略して岡崎に進出したのを皮切りに西三河を従えた。 

 享禄2年(1529) 19歳の清康は 東三河の吉田川合戦に勝利し次いで田原を攻め、翌年には 宇利城を攻略して三河統一を成し遂げた。
吉田川合戦には 信孝・康孝の兄弟も兵800を率いて後詰の一手として参戦していたことが記録に残っている。 

森山(守山)崩れ

 破竹の勢いであった清康だが 天文4年(1534)12月 尾張守山の陣において家臣阿部弥七郎に切られて死んでしまう。享年24歳。

 大将の突然の死によって松平軍は雪崩を打って岡崎城に逃げ帰った。このとき 清康の嫡男仙千代(後の広忠)はわずか10歳であった。
 翌年2月尾張の織田信秀の大軍が押し寄せると 岡崎方は仙千代名代として信孝・康孝を両大将に立てて戦い 辛うじて織田軍を退けた。

仙千代(広忠)の流亡と帰還

 織田勢が引き上げると入れ替わるように桜井城主松平信定が岡崎城に入った。危険を感じた阿部定吉は仙千代を伴って伊勢神戸の東条持広のもとに落ち延びていった。
仙千代一行は 駿府の今川義元を頼り掛塚に移り その後、形原、牟婁と各地を転々とした。
 天文6年(1536)6月 大久保忠俊らの努力により仙千代は岡崎帰還を果たした。
このとき 信孝は「大久保新八郎(忠俊)が来たら鍵を渡せ」と妻女に言い置いて有馬へ湯治に出かけたという。
広忠はその恩を終生忘れなかった。やがて信孝は後見人として広忠を支えるようになった。
 桜井の信定は、大樹寺に住む父道閲(5代長親)のとりなしで広忠に許される。道閲は信孝にも わが子の罪を赦すよう頼んでいる。信孝が岩津松平の旧領を得たのは道閲からであったかもしれない。

信孝追放

 天文8年(1538)桜井の信定、青野の義春ら一門の古老が相次いで亡くなり後見人として信孝の勢威は増してくる。 さらに 天文11年(1541)に浅井西城主康孝が病没。 跡継ぎがいなかったため 信孝が浅井と三ツ木の領地を継承し三ツ木の城を根拠地とした。
 信孝が康孝の遺領を引き継ぐことにつき 広忠に異存はなかったようであるが 宗家より大きい分家ができたことに家臣に動揺が起こった。
阿部定吉ら重臣たちは 信孝がやがてかつての桜井松平信定のように宗家を乗っ取ろうとするのではないかと恐れたのである。
 広忠は信孝と重臣たちの間で悩んだであろうが かつて仲介役を果たしていた大樹寺の道閲は高齢であり 重臣たちの意向に沿わざるを得なかった。
 天文12年(1542)(一説では16年)正月 信孝は 病気の広忠の名代として年頭のあいさつに駿府の今川家を訪れた。留守中 広忠の手のものが信孝の領地を襲い代官を置いて宗家直轄地とした。
駿府から帰った信孝はこの非道を怒り 今川義元に調停を求めた。義元は岡崎から重臣を呼び寄せたが 本多忠高、酒井正親、石川清兼、阿部定吉、植村氏明ら重臣は みな信孝の非を訴えるので仲介することをあきらめてしまった。


信孝反旗

 今川は頼むべきにあらずと見限った信孝は天文12年(1542)8月 織田方に奔ってしまった。

大久保忠俊の弟 忠員・忠久は信孝に付けられた家臣であったが 信孝の留守中 他の家臣らを説得して引き連れて帰参していた。

 信孝は「大久保一族の子供なりとも捕まえて はりつけ、串刺して怨みをはらさん」と怒った。
用心した忠俊は一族の婦女子を針崎の鬘寺にかくまってもらった。

 天文13年(1543) 織田信秀が安祥城を攻略し 長男信広を置いた。
やがて上野の酒井忠尚 佐々木の松平忠倫らが離反して矢作川の西は 織田方になった。織田信秀は上和田に砦を築き 松平忠倫にこれを守らせる。
松平信孝は 安城の山崎に城を構えて忠倫らと連絡を取り合い岡崎城に敵対した。 

  • 山崎城址堀(1)(1)(1).JPG
 山崎城堀跡(安城市山崎)


 天文14年(1544)お大の兄 刈谷城主水野信元が今川氏と絶縁し織田氏に従ったため広忠は お大を離縁した。

この年 広忠は清縄手で織田方に勝ち安祥城を攻めたが 勝利は得られなかった。天文15年には上野城の松平(桜井)清定・酒井将監の上野城を攻撃して勝っている。

 天文16年(1547)8月 広忠は今川の援助を乞うため竹千代を人質として駿府に送り出したが途中 田原の戸田氏により尾張に拉致されてしまう。
 同9月 山崎城の信孝は渡河原において広忠と戦った。広忠方はかろうじて勝った。 
 同10月 広忠は刺客を送って上和田砦の松平忠倫を暗殺する。


信孝討死

 天文17年3月 織田信秀が大挙して岡崎に押し寄せてきた。
今川義元は太原雪斎を大将に軍を差し向け両軍は小豆坂で激突したが 今川方の勝利となった。 
 4月 信孝は単独で500余の兵を率いて岡城崎奪取を目指した。待ち伏せる広忠の軍と明大寺村耳取縄手で合戦した信孝は 流れ矢に脇腹を射抜かれて討死。

  • 耳取縄手(1)(1)(1).JPG
 耳取縄手(岡崎市明大寺)


 信孝の首を前にして広忠は「どうして生け捕りにしてくれなかった。蔵人(信孝)殿に恨みはなかった。私の方が追い出し敵にしてしまったことなので 内膳(桜井信定)が敵になったのとは違う」と涙を流してその死を悲しんだという。 

 遺骸は 上和田の浄珠院に葬られた。
享年は不明であるが 長兄清康24歳の横死から14年であることから 信孝は35歳前後であったかと思われる。

  • 浄珠院信孝墓(1)(1)(1).JPG
 浄珠院信孝墓碑

 浄珠院の信孝位牌
清康様御舎弟、広忠様御後見、三木松平
清光院殿忠岳心照大居士 霊
天文十七年戊申年四月十五日
松平蔵人信孝於明大寺村御討死


 天文18年(1549)3月広忠没享年24歳。
 
 同年 11月太原雪斎が吉田城から岡崎城に入り 安祥城を攻略。 
織田信秀長男信広を捕えて竹千代と人質交換をする。
竹千代は駿府に移されて人質生活を送り 岡崎城には今川氏の城代が入ることになる。
以後 永禄3年(1560)松平元康(家康)帰還まで岡崎の家臣たちはつらい時期を過ごすことになる。

 信孝の子重忠は後に家康に仕えて大番頭となった。


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